『幕末・明治維新の真実』

始めに、佐幕・尊皇・攘夷・開国の意味を簡潔に確認したい。

・佐幕とは、幕権強化論。

・尊皇とは、君主(天皇)を尊ぶ事。

・攘夷とは、海外勢力を武力で駆逐する事。

・開国とは、植民支配受容。

上州上野に高山彦九郎と云う勤皇思想家がいた。

延享4年(1747年)5月8日、上野国新田郡細谷村(群馬県太田市細谷町)生まれの勤皇思想家である。

高山彦九郎の思想に強く感銘し多大な影響を受けた人物の一人が、かの吉田松陰である事は周知の事実である。

吉田松陰は出生地である長州、現在の山口県より遠路はるばる我々の郷土、現在の群馬県太田市の高山彦九郎邸まで直接教えを請うため足を運んだほど敬愛と尊崇の念を抱いていたのである。高山翁よりこれからの「日の本のあり方」「欧米列強国の侵攻を予見している事」「それが現実となった時の対応」などを伝授されるに至る。

因みに、松下村塾の門下生の一人で最後まで倒幕に反対し、京の都で自決した久坂玄瑞も、高山彦九郎の墓参のためこの地に足を運んでいるのである。

吉田松陰、長州に帰国してからは、高山彦九郎から受けた教えと自身で学んで来た学問や思想をこれからの日の本を背負って行く若者達に、今まで以上に広く伝授、教育するため、松下村塾で、より深く門下生達と議論を戦わせる事となる。

この門下生の中に、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文などがいた事は有名な話しである。吉田松陰の教えが間違った教育でなかった事は、その後、高杉、久坂、伊藤などによって証明されるのだが、時を同じくし高山翁の予見した通りの事が起こる。海外勢力、英国、仏国、米国が日本近海に進出侵攻。日本に開国の要求を受け入れさせるため武力による威圧が始まる。

吉田松陰の教えを受けた門下生達は皆、国士として立ち上がり外圧に決死の覚悟を持って抵抗した。

当時の欧米列強は「白人至上主義」の概念により「有色人種」は塵芥「白人様の奴隷」とするのは当然だと云う人種差別からアジア各国を植民地化する事に罪悪感など微塵も持ち得ていなかった。そして、アジア各国は一様に白人に降り植民地支配を受け入れこれに甘んじていた。極東の小国である日本も当然、植民地支配を受け入れるものだと考え疑う事は無かった。ところが、日本から思いもよらぬ徹底反撃を受ける事になったのだ。この衝撃を受け入れる事が出来るまでには長い時間が必要だったと、後に英国要人は語っている。そして、これこそが「武士道」と云うものかと逆に感動さえ憶えた程であったとも書記に書き残させている。

当時の覇権国家英国ならではの情報収集力だと云えるだろう。日本と云う国家を詳しく分析、検証していた事(武士道精神、民族性など)が伺える事案である。そして、後年「日英同盟」を締結するに至る際にも白人国家と有色人国家との同盟と云う事まで可能としたのである。

日本を武力での侵略は難しいと見た英国は吉田松蔭が幕府により処刑された事につけ込み門下生達を洗脳し薩長を支援。フランスは薩摩を介し幕府への対応、支援をする事となる。

高杉、久坂等が英国によりテロリストとして洗脳され、坂本龍馬、岩倉具視など、同じく洗脳され売国奴と化した若者達を使い倒幕開国に向かう悲劇が起こる事となった。

明治維新とは高山彦九郎~吉田松陰に受け継がれた教えにより、頭脳明晰、戦略に長けた戦士、祖国日本を想う国士へと成長した若き志士達に仮想敵を創り、その敵が日本国に対しての絶対悪だと巧みに洗脳し起こさせたクーデターだったのだ。

ここから、幕末・明治維新の歴史観を見直す。

歴史は、数々の出来事の表面をなぞるだけでは事実を解明することは出来ない。出来事を作り出している勢力が、つねに裏側にいて、彼らは決して教科書などには出てこない。

歴史を動かしているのは今も昔も市場勢力(金融や商業や諜報のネットワークを持つ勢力)である。中世ヨーロッパではサヴォイ、タクシス、デルバンコといった「奥の院」と呼ばれる貴族、近世ではヴェルフ家やヘッセン家、サッスーン家、マセソン家(アヘンと紅茶の元締め)近代においてはロスチャイルド家やロックフェラー家といった者達によって、歴史は彼らの意図に沿って動かされてきた。しかも彼らは決して歴史の表舞台に出ることなく今も代を継ぎ存続している。(なお現在形では、サヴォイやデルバンコら奥の院は、自分達の思惑と利害が一致する勢力(国家)と組み、ドル暴落→市場システムの崩壊⇒基礎保証・ベーシックインカムによる新たな社会構築に向けて動いている)と推察する事が出来る。しかし、斜陽しつつある事は確かだが、経済的、軍事的にまだ多大な影響力がある覇権国家米国を相手にする事は現実的にかなりの無理があるとも言える。

しかし、世界の中央銀行紙幣発行システムを握るロスチャイルド。そして、世界の石油エネルギー権益を握る故ロックフェラー(現在はブッシュ家等が継承)から覇権を取り戻すため巻き返しに動き始めているとの予見はできる。

日本において、古くは物部氏や秦氏の商業(諜報)ネットワークが歴史を動かしてきた。日本はいわば秦国(中国)で没落した氏族の秦氏など、朝鮮半島経由で日本に入って来た勢力によって古来より支配されて来たという認識と危機感を持つ必要がある。

当代の日本人は「第二次大戦前後の歴史観を見直す」事も必須だが、(日本の戦争は大東亜戦争であり太平洋戦争呼称は米国により洗脳されたもの)まずはこれ以前からの真実を検証する必要があるのだ。

幕末や明治維新といえば、我々は少年時代に司馬遼太郎氏などの小説を夢中で読み、そこに書かれている志士達のヒーローのような活躍を、あたかも事実であるかのうように錯覚していた頃がある。しかし、これもまた誤った歴史認識なのだ。一例として、坂本龍馬率いる「海援隊」がある。当時まだ20~30歳前後の若造達が大名ですら購入する事が出来ない商船、軍船を何隻も所有し、武器弾薬をも揃え、日本各地に散り隠密活動出来たのは何故か??それらの資金を提供していたのは一体何処の誰なのか??

この一例だけ取って見ても、裏で何者かが重要な目的のために暗躍していたと解する事が出来る。

幕末から明治維新にかけての動乱は、いわば倒幕のテロリスト達が起したクーデターであり、それを裏で操っていたのが、英国、欧州貴族勢力である事を知らなければならない。

 ・明治維新1・・利用された高杉晋作らによる尊皇→倒幕テロリズム開国要求とは「国民と自由に貿易をさせろ」と云うことであり、開国とは「植民支配受容」である。「攘夷」とは「海外勢力を武力で追い出せ」と云う事である。

幕末の公議輿論派とは、公論や民意に基づいて政治を行おうとした人々であり、その代表が首席老中阿部正弘。

阿部は庶民からも意見を公募し、前水戸藩主徳川斎昭を幕政参与に任じ、越前藩主松平慶永と薩摩藩主島津斎彬を幕政の相談役として、全員参加の民主的挙国一致体制を確立した。

公議輿論尊重の延長線上に公武合体論、そこから西洋議会制度の知識で洗練された公議政体論が生まれた。

高山彦九郎、吉田松陰もほぼ同義のこの様な論を展開していたのである。

日本という国家が、その長い歴史の中で最も光芒を放ち、民も平等に平穏な日々を過ごし、庶民の識字率はなんと80%にも及び世界一。鎖国していたにも関わらず、政治や経済も他国に引けを取らないシステムを構築していた先進国であり、当時の江戸は世界各国の首都の中で世界一の人口を誇っていたのである。

1858年日米修好通商条約に端を発する1858年安政の大獄や1860年桜田門外の変は、水戸藩と彦根藩が将軍の継承をめぐって跡目・派閥争いをしていただけで、幕府は安泰だった。そして、ここでも高山彦九郎と同郷、上州の産である小栗上野介が活躍した。日米修好通商条約のため渡米し条約締結に尽力し、世界一周して世界の主立った国の内情収集に励み、帰国後、現在の外務大臣にあたる外国奉行を務め、陸軍奉行、軍艦奉行、海軍奉行を歴任し、洋式軍艦整備を目的とした横須賀製鉄所を開設するに至る。小栗もまた、高山翁を師と仰ぐ人物であったのである。

だが、この頃から、天皇を担ぎ出して幕府と対立し、日本の内戦を誘う動きが過激思想を持つ公家から出てきた。過激思想公家の「尊皇」とは、この混乱を機に幕府から権力を奪うためのスローガンである。

それに対して、公武の分裂と対立を未然に防ごうとしたのが「公武合体論」朝廷と幕府、諸藩が一致協力して国政を運営しようとする考え方である。

1862年 和宮降嫁による公武合体

この公武合体はそのまま幕権強化論(佐幕論)の一部となる。

最新式軍事技術を手に入れ迫り来る外圧に対抗すれば、攘夷も可能になり対等に外交が出来る。その為には外交窓口を幕府に一本化させる必要があり、幕府の権力を上げる必要がある。それが「 最新武装技術導入+外交窓口一本化=幕権強化論」である。実際に幕府は財政の総力を挙げ、近代型海軍を創設した。

この時点でも幕府は健在。

ここまでのスローガンは

幕府= 尊皇+攘夷の為開国

天皇= 佐幕+攘夷

長州= 佐幕+尊皇+攘夷

薩摩= 佐幕+尊皇+開国

1862年、清国上海から洗脳された高杉晋作が帰国。国際金融資本の手先として長州藩を過激な倒幕運動に導き、倒幕テロリズムが始まる。(当時、上海は金融資本家の集合地帯であった。)

この過激派テログループと、幕府を倒して公家の時代を到来させたい過激思想の公家たちが結託して掲げたスローガンが「尊皇=倒幕」である。

こうして過激派テログループや倒幕派公家たちの陰謀によって攘夷運動がいつの間にやら尊皇(倒幕)思想に巻き込まれていき、京都に長州や各地のテロリストたちが結集、「天誅」の名の下に攘夷テロの嵐が吹き荒れる。

「尊皇」と「攘夷」は本来別もので、尊皇の当事者である孝明天皇が掲げていたのは「攘夷」である。孝明天皇は、倒幕派公家と過激派テロリストを危険視し、京都守護職松平容保や薩摩に命じて長州のテロリストを都から一掃した。1862年「八月十八日の政変」

1863年、長州藩は京都御所を包囲・攻撃「禁門の変」

これに激怒した孝明天皇、長州征伐の勅令「第一次長州征伐」

幕府は天皇と手を組み朝幕一体化し、幕権強化を成し遂げ、過激思想公家や長州藩のテロリストたちを鎮圧した。

ここまでのスローガン

幕府= 尊皇+攘夷の為開国

天皇= 佐幕+攘夷

長州= 佐幕+尊皇+攘夷

薩摩= 佐幕+尊皇+開国

公家= 尊皇+倒幕

テロ= 倒幕

高杉晋作や伊藤博文、公家三条実美たち過激派テログループがクーデターを起こし、長州藩保守派を排斥。1864年「元治の内乱」このクーデターによって長州藩は完全に反日倒幕テロ組織、「新長州藩」となる。

海外勢力の長期に渡り巧みに仕掛けられたワナ、手口にまんまと騙されてしまったのだ。

藩政を掌握した高杉は下関港を開港。武器弾薬、外国製品で下関港は溢れかえった。この辺りから岩倉具視や坂本龍馬、そして薩摩の売国奴たちが一斉に動き出し、時代は風雲急を告げる。

1865年 アメリカ南北戦争終結。

南北戦争で使われた武器を二束三文で買い叩き、薩長に高値で売りさばいたのが英国マセソン家の番頭、トーマス・グラバー商会であり、その手先が坂本龍馬である。

その頃、薩摩の洗脳開国派テロリストたちも動き出す。

元々、薩摩は欧米との密貿易で利益を上げていた。薩英戦争などの遺恨は色々あったように見えるが、実は薩摩は初めから英国と手を結んでいた。だから長州が「攘夷」から「開国」へ転身したところで利害が一致、ここで薩摩は「開国」の為「佐幕」を捨て、「倒幕」に変節。

薩摩は長州の武器調達のため英国を紹介した「薩長同盟」「坂本龍馬が、薩摩と長州を結びつけた」というのは間違いで、正確には「薩摩が、英国の商社お抱えの武器密売商人であった坂本龍馬を長州に紹介した」と云うのが正しい歴史である。

(武器密売で財を成す坂本龍馬の最後は暗殺されて終わるが、龍馬に接近し親しい関係にまで至った岩崎弥太郎は三菱商事を創設し明治開国後、政商となり財閥となる)

・明治維新2・・倒幕テロリストのクーデターが明治維新

1866年 第二次長州征伐、薩長同盟(薩摩は出兵拒否)。

その最中に将軍家茂が21才の若さで亡くなり、翌年には36才の若さで不運にも孝明天皇が亡くなる(死因は毒殺)真相は解っていない。

黒船来航以来一貫して佐幕攘夷を掲げていた孝明天皇は、倒幕派公家やそれと結託した過激テロ組織らの最大の障害となっていた事は事実である。

倒幕派が決起しようとした時、将軍慶喜は先手を打った。大政奉還と公議体制樹立の奏上である。

大政奉還の上奏文で、慶喜は「広く天下の公議を尽くして、天皇の御英断を仰ぎ、諸侯と同心一体となって協力し、彼らと共に我が国を安んじ守りたい、それが自分として国家につくす最大の誠意である」と述べ、公議体制による国家運営を奏上。それは、朝廷の下で上下両議会を設置して、議会もしくは行政府の長が、天下の公論を以て政治を行うというものであった。

大政奉還によって、公家・薩長ら倒幕勢力はクーデターの名目を失い、幕府は公儀政府となった。

ここまでのスローガン

公儀政府= 尊皇+攘夷の為開国

天皇= 公儀+攘夷

新長州= 倒幕+開国

新薩摩= 倒幕+開国

公家= 倒幕

しかし、新長州、新薩摩、過激思想の公家のテログループは表向きのスローガンとして「尊皇攘夷」を掲げ、情報工作した。

岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛らは、前大納言・中山忠能、前大納言・正親町三条実愛、権中納言・中御門経之らに「倒幕の密勅」を出させた。

この「密勅」は、幼帝明治天皇が関知しないところで作成された偽勅である。

さらに、岩倉具視や大久保利通らは武力クーデター計画を進め、佐幕派の摂政・二条斉敬や賀陽宮朝彦親王らを排除し、御所を包囲制圧し明治天皇を掌握。この時岩倉の主導で発令されたのが「王政復古の大号令」

これは天皇親政の名の下、岩倉具視一派や薩長のテロリストらが主導する新政府樹立宣言。

京都にいた将軍慶喜は旧幕府陸海軍の精鋭部隊の来援を命じ軍事的優位を確立する。外交面でも英・仏・米・蘭・独・伊の6ヶ国の行使を引見し徳川政権の正統性を諸外国に認めさせ、逆に岩倉具視や大久保利通らを追い詰める。こうして将軍慶喜は政治的挽回を果たし、巻き返しに成功した。

大政奉還によって武力倒幕の名目を失った西郷隆盛は開戦の切っ掛けを作る為、江戸で薩摩のテロリストたちに無差別テロを繰り返させ、幕府を挑発し続けた。その結果、鳥羽伏見の戦いが起きる。

近代化された幕府陸軍が優勢であったが、テロリスト側薩長陣営に「錦の御旗」が翻り、幕府軍は総崩れする。

クーデターで拘束されていた幼帝明治天皇に、テロリストたちを正規軍だと認めさせる工作を計り正規軍であるはずの幕府軍を賊軍とみなさせる事に成功したのである。幼帝明治天皇の幼さを利用し過激思想の公家と新薩長が仕組んだ事は言うまでも無い。

この事、支那大陸の後漢末期、幼帝の後見人として正統性を主張し権力、武力を行使していた董卓や曹操を彷彿させるものてある。

将軍慶喜は徹底抗戦派らの意見を抑え、上野の寛永寺で謹慎恭順。政権はテロリスト側に移った。

幕府が戦えば外国勢力も介入した激しい内戦となり、どちらが勝っても壊滅的被害が出たであろう。それを将軍慶喜は良く分かっていた。

徳川家最後の将軍慶喜公は大変な統率力と決断力、そして聡明な人物であった事はまごう事なき真実なのである。しかし、その後の新政府によって改ざん、捏造が繰り返えされた事により「優柔不断、無能」と言った偽りの人物像が後世に広く伝わってしまったのである。

また、水戸藩などが奨励していた、儒教、朱子学といった学問とは全く別に、高山彦九郎の思想を胸に秘めていた慶喜公であった事を当代における我々は決して忘れてはならないのである。

上記のとおり新政府軍は江戸城を開城させ、史料捏造を開始する。

明治新政府は、政府とは別個の軍事組織である総督府を勅命で組織し、官軍を名乗り戊辰戦争という侵略戦争を開始。

この総督府には、軍令、軍政に関する一切の権限、並びに民政一般にわたる広範囲な裁量権まで与えられた。

この軍事組織である総督府は、後の植民地経営にも応用され、台湾総督府、朝鮮総督府として受け継がれる。

政府ではなく総督府が戊辰戦争を取り仕切った理由は、政府内部には慶喜公に味方する意見や東征反対論があったため、政府自体が戦争指導を行うと、反対派らの意見によって戦争遂行が妨げられるから別立ての組織を整えたのである。

後の大日本帝国憲法は、この軍・政分離の仕組みを明文化したものであった。

即ち軍隊を統帥・編成し、宣戦布告や和平を結ぶ権限を天皇が独占して、議会は、予算面における関与だけで軍部をコントロールする道が閉ざされてしまったのである。

昭和に入って政治問題化した統帥権独立の議論は、帝国憲法の軍・政分離とシビリアンコントロール排除の規定に起因するものであったが、これらは、根源的には、戊辰戦争時の総督府に由来するものである。

またこのクーデターの中枢にいたのが長州藩である。長州は古くから諜報のネットワークによって自らの私権を保持し続けてきた。その核心が、幾人もの大臣、総理大臣を輩出して来たと言える。山口県には私権欲が非常に強い人間が多かったのであろうか?? 過去のこの時代にまで遡る最大のタブーであった事は言うまでもないが、今世紀最大の情報革命である、インターネットシステムにより広く知り得ることができるようになった。

高山彦九郎の最後は、何らかの理由により、薩摩藩(鹿児島)に入った後「結果を得る事が出来なかった」と言う非常に曖昧で謎めいた言葉を日記に綴り、九州各地を転々としながら最後に、筑後国久留米(福岡県久留米市) 森嘉膳宅にて自刃。

(暗殺??)世界的に見ても大思想家とされる天才高山彦九郎の生涯はここで幕を閉じる事となったが、我が国日本国、日本人に多大な影響とその思想を残し、その精神は今なお日本人の体内に刻み込まれ受け継がれている。

先に述べたとおり、現在の情報革命により、まだ明かされていない奇想天外な真実が見えてくる事になるであろう。

最後に紹介したいものとして、高山彦九郎の思想に非常に強い関心を持っていた人物の中にあの「三島由紀夫」がいたと云う事である。

この様な意味合いも含めて!!

勤皇思想家 高山彦九郎から吉田松陰に受け継がれた日本独自の思想や文化もまた、このシステムにより解明され、日本人として絶対的に死守する必要がある事を再確認するに至ったのである。

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