『杉原千畝・「命のビザ」』

「杉原千畝」(すぎはら ちうね)明治33年1900年1月1日~昭和61年7月31日は、元日本外交官。岐阜県八百津町出身である。

第二次世界大戦中、リトアニア・カウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によってポーランド等の欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情し1940年7月から8月にかけて日本外務省からの訓令に反し、大量のビザを発給し、避難民を救ったことで知られている。その避難民の多くはユダヤ系人であった。「東洋のシンドラー」などとも呼ばれている。

本年4月11日、当時、杉原千畝が発給したビザにより難を逃れ生き延びたユダヤ人難民の遺族が、杉原の生地に建てられた「杉原千畝記念館」に父親が残したビザを持参し訪れた。「杉原千畝は父だけでなく、我々家族全員の命を救ってくれた。」と話したそうである。

以下が杉原が発給したビザ。

昭和15年、1940年7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており、ソビエトが各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先(オランダなど)への通過ビザを求めて殺到した。「忘れもしない1940年7月18日の早朝の事であった」と回想する千畝は、その手記のなかで、あの運命の日の光景をこう描いている。「6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」

ロシア語で書かれた先の報告書にあるように、カウナスに領事館が設置された目的は、東欧の情報収集と独ソ戦争の時期の特定にあったため難民の殺到は想定外の出来事であった。杉原は情報収集の必要上亡命ポーランド政府の諜報機関を活用しており、「地下活動にたずさわるポーランド軍将校4名、海外の親類の援助を得て来た数家族、合計約15名」などへのビザ発給は予定していたが、それ以外のビザ発給は外務省や参謀本部の了解を得ていなかった。本省と杉原との間のビザ発給をめぐる齟齬は、間近に「日独伊三国同盟」の締結を控えて、カウナスからの電信を重要視していない本省と、生命の危機が迫る難民たちの切迫した状況を把握していた出先の杉原による理解との温度差に由来している。

ユダヤ人迫害の惨状を熟知する杉原は、「発給対象としてはパスポート以外であっても形式に拘泥せず、彼らが提示するもののうち、領事が最適当と認めたもの」を代替案とし、さらに「ソ連横断の日数を二〇日、日本滞在三〇日、計五〇日」を算出し、「何が何でも第三国行きのビザも間に合う」だろうと情状酌量を求める請訓電報を打つが、本省からは、行先国の入国許可手続を完了し、旅費及び本邦滞在費等の携帯金を有する者にのみに査証を発給せよとの発給条件厳守の指示が繰り返し回電されてきた。

杉原夫人が、難民たちの内にいた憔悴する子供の姿に目をとめたとき、「街角で、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主に向かって両手をあげよ」と云う『旧約聖書の預言者エレミアの「哀歌」が突然心に浮かんだ』。そして「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」という杉原の問いかけに、「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と同意したと云う。そこで杉原は、苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」と云う理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。

日本では神戸などの市当局が困っているのでこれ以上ビザを発給しないように本省が求めてきたが、「外務省から罷免されるのは避けられないと予期していましたが、自分の人道的感情と人間への愛から、1940年8月31日に列車がカウナスを出発するまでビザを書き続けました」とし、避難民たちの写真を同封した報告書を送ったとされる。

・カウナスに残る旧日本公使館

日本の領事館の閉鎖日が近づくと共に、杉原は作業の効率化のため、途中から記録することを忘れていた。実際には記録に残るビザ以外にもビザや渡航証明書が発行されているが、記録外の実数は把握出来ていない。また、一家族につき、一枚のビザで充分であったため、家族を含めて少なくとも数千人の難民の国外脱出を助けたと考えられている。

杉原が発給したビザは2139枚。そしてビザの発給で救われた命は約6000人と云われており、更に現在その子孫を含めると約20万人以上の人達がいるそうである。

当時の日本外務省は、訓令違反の咎で、杉原を罷免した。このため、杉原の名誉回復がなされたのはなんと2000年。たった19年前の事である。こうした背景から日本人の多くが、この杉原の事を知らずにいたのだ。最近ようやく映画化され一般にも知られるようになったのである。

杉原千畝の正義の功績を一人でも多くの日本人に知って頂きたい。

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